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未明の独奏会

20210327_1

!SYSTEM
が入室しました
――王都イルスファール、〈星の標〉。
リアン地方内外に広く知られるその宿には、日夜多くの人間が訪れて また、発っていく。
早朝は争奪戦が起きる都合、最も人が訪れ 昼食時、夕食時、日付の変わる深夜と、それぞれの時間にも人が多く訪れるが
日付も変わり まだ陽も昇る前
最も暗いとされる夜明け前に、所在無さげに奏でられる音があった。
 
この宿は酒場を併設しており その酒場の奥には、一つのピアノが置かれている。
これに触れるものは、――まして、演奏するものは、そう多くはない。
とはいっても、埃を被っている訳でもないそのピアノの前に 一人の青年が座っている。
 
その青年は、確りと足元のマフラーペダルを踏み込んで 遮音の工夫を凝らしながら、一人で鍵盤を叩いている。
奏でられている音とリズムは、ある程度の周期が決まっていて 同じ曲を響かせ続けている。
先日、騎士だという男から教わった曲だ。……暫く練習に付き合わせ、未だたどたどしくはあるものの ただ弾く、というそれだけは出来る様になっていた。
 
暗い宿に、小さな音が響く。また騒音だと怒りを買うかもしれないが、彼にとっては重要な事ではなかった。
その時はその時で、また次にすればいい。――そんな、自分が折れる という思考の変化に、彼は未だに気付いていない。
 
訥々と、いくつかの音が重ねられていく。
その音は静かに、確かめる様に奏でられ
静かな店内に、僅かに響いていく。
 
何巡しただろう。そんな事も気にならない程に、青年は鍵盤の上に指を躍らせている。
ただひたすら、それを続ける。――動機は、簡単なものだった。
ただ、彼女が喜ぶことを。青年(けもの)には、それだけで十分で
その為に、最も彼女が喜ぶことを探した時 
音を連ね 重ねて、響かせる事を選んだ。
 
恐る恐る触れていた鍵盤の上で、指は徐々に滑らかになっていく。
傷の絶えない、細く長い青年の指は 幾つもの(おと)を殺してきたその指は
確かに今、幾つもの感情(おと)をこの暗い店内に 夜明けの来ない空に響かせている。
 
暫く、奏でて
どれだけの時間が経ったかも解らない程に、独奏に熱中していた青年は
薄い表情の中に、確かな満足の色を滲ませて 指を止める。
ゆっくりと、奏でていた自身の指先を見遣って 
いつか、彼女の指に触れた時の様に それを柔く握り込んだ。
 
首輪付きの獣だと、誰かが言った。
“福音の奏者”に首輪を付けられた、全てを厭わない獣なのだと。
それでも、この日 この場所で独奏し
自身が奏でた音に、満足そうに笑みを浮かべ
想い人に聞かせたい、と願うその姿は
ただ、どこにでもいる 恋をする青年のものだった。
 
そうして、夜が明ける。
青年の愛する、どこまでも突き抜ける青空が広がって――
 
――、」 (せいねん)は、青空のもとへと駆け出して行った。
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